2017年9月4日月曜日

六甲で考えたこと その2


六甲・神戸でいつも気になるのは、言語コミュニケーションです。海外からいらっしゃったレビュアーがレビューやレクチャーをするわけですから、参加された写真家も英語のコミュニケーションがとれればそれが一番いいのかもしれません。
とはいえ六甲・神戸の場で本来的に大事なのは写真を語ることであり、写真のリテラシーやスキルを磨くことが第一義の目的のはずです。であるならば参加した写真家が英語をしゃべれたり理解できたりということはあくまで二次的な問題です。異国人間のあいだに優秀で写真リテラシーも備えた通訳者がいればそれで事足りるはずなのです。もし参加された写真家が英語で話さなければいけない、とか英語でレクチャーを理解できるようにならなければいけない、とかプレッシャーを感じてしまっているとしたらそれは本末転倒といわざるをえません。それよりもまず自作を自分の言葉でより簡潔に、正確に伝えることに時間をさくべきだし、六甲・神戸にいる時間は写真のさまざまな問題の中身そのものをじっくり考えることが大事かとおもいます。

加えて西洋と東洋ではまず文化のバックグラウンドがまったく異なります。言語はその土地の文化的なバックグラウンドのうえに成り立っているものですから当然その違いも考慮されなければなりません。英語だけで東洋と西洋のコミュニケーションが完全にできる、と考えるのは少しばかり楽観的に過ぎるのでは、と思ってしまいます。
はじめにロゴスありき、とはヨハネ福音書の言葉ですが、このロゴスは言葉と訳されることが多いと思います。悟性と訳されているものもありますが、悟性っていったいどういう意味なのかわかりにくい言葉です。ロゴスはロジックに通じる言葉でロジックとは論理です。すごくおおざっぱに言ってしまえば西洋的な価値観はまずロゴス=論理的な世界が基礎をなしているわけです。
港千尋さんが若かりし時にヨーロッパで写真作品を見てもらおうとしたら、まず写真を見る前にきちんと自分の写真についての説明をして納得してもらえなければ見てもらえなかったので非常に面食らったとおっしゃられていたことがあります。東洋の国である日本ではそんなことは考えられないことです。まず写真を見てからすべてが始まるはずです。それに自作に過剰な説明を加えれば自作に自信がない、ととられるのが落ちですので写真家は写真のみに語らせて自分は寡黙であるほうがよかったという時代すらあるわけです。日本は東洋に位置していてぼくたちの行動や考え方の奥底にはいまだにアニミズムやシャーマニズムがあります。人間以外のどんなものにも魂がある、と考えるのがアニミズムです。でなければ元旦の神社にあんなにも多くの人がおまいりにいくはずがありません。神社には西洋的な一神教の神様はいないのですから人々が祈りを捧げている、もしくはご利益を願っている対象は八百万の神様つまりそこいら中のものにお祈りしているといって過言ではないでしょう。少し高級なかんじに表現すれば森羅万象すなわち宇宙と心を通わせようとして手を合わせている。そこには冷徹なロジックも審判もありません。

僕が在籍していた工作舎という出版社があります。松岡正剛さんという天才的な思索家が世界の様々な知の巨人たちと日々丁々発止していました。「遊学の話」という単行本にもまとまっていますが、スーザン・ソンタグ、J.G.バラード、ナム・ジュン・パイク、ジョン・ケージ、ピエール・ド・マンディアルグ、ロジェ・カイヨワといった錚錚たる人達との対話篇です。松岡さんは日本語しかしゃべりませんからこうした思想に通じた同時通訳者が介在していました。同時通訳者のすばらしいパフォーマンスを見るとほんとに驚いてしまいますが、もしかしたら話をしている人が同時通訳者に乗り移ってしまっているのではないか、と思ってしまうぐらいにもうその人自身が日本語でしゃべっているように感じてしまいます。ほんとうに憑き物がついているようなかんじです。その時期に在籍していた同僚には後藤繁雄さんや西岡文彦さん、祖父江慎さんなど現在各分野で重要な仕事をしている人達がいましたがその時だれも英語が話せるようにならなくちゃ、とかフランス語が話せるようにならなくちゃとは思いませんでした。言語の違いが意識されなくなるくらいに話の内容そのものにひきこまれていたからだと思います。

グローバル化に乗り遅れるな、と叫んでいるような人達は英語の公用語化なんていうことも叫び出しがちですけれどそれこそ愚の骨頂というものです。言語のバックグラウンドを無視すればその国の文化が滅びてしまうことに気がつかないほど愚かなことはありません。同じ日本語でもその地方地方によってさまざまな表現の違いがあって、その土地土地の風土によってきめこまやな感情表現が言語に織り込まれています。ある言葉がもたらす表現が唯一無二のものであり、他の日本語や外国語では表現できない心象があったりします。日本語に翻訳不能の英語があったり、英語に翻訳不能の日本語があったりします。無理に英語でしゃべろうとすれば日本の文化のバックグラウンドにある微妙な思想が省かれてしまう危険性すらあると思います。もしかしたらそこが一番重要かも知れないのにです。

写真の世界でも異文化間の言語コミュニケーションをどのようにしていくのか、という問題はとてもデリケートで大切なことだと感じています。AIが発達して自動翻訳機の性能がものすごくあがったとしても異文化間のバックグラウンドの違いを大切にしてそこに大事なものを見落とさないようにしなければならないでしょう。見れば誰でもわかる、というような世界中の人が理解できるような単純な写真ってほんとうにあるのでしょうか。逆に即座に誰にでも了解できる記号としての写真があるとしたらかえってそこには危ういものがひそんでいるような気もします。写真もヴィジュアルコミュニケーションというツールの一つであるならば、そこにも色濃くそれぞれの文化のバックグラウンドが織り込まれているはずでしょう。違いの発見こそ異文化コミュニケーションの一番大切な部分ではないか、という気がしてなりません。

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